2019年9月29日日曜日

2019/9/28 月と旋回の集いの集い

ご来場いただきました皆様。
これまで、集いに参加くださった皆様。
本当にありがとうございました。

天秤座の新月。
星読み師sugarさんによる、景色が素晴らしく。
ここでも、シェアさせていただきます。

▼秋分と天秤座
9月23日に秋分を迎えてから初めての新月となる天秤座での新月は、東京時間で9月29日深夜3時26分頃となります。

天秤座は古来より人間の二元性、すなわち自然存在と霊的存在の均衡を表してきましたが、これは秋分が暦の上で「陰陽の中分なればなり」とされ、一年を二分してきたのと重なって、日本人のDNAにも深く刻み込まれてきた感覚なのではないかと思います。

占星術では、新月前後の3日間は人間の精神に新しい意志が宿っていく「種まき」にふさわしいタイミングとされますが、冬への備えが始まる秋分=天秤座においても、‟収穫”を象徴するシンボルとして純化された「種子」が取り上げられます(春分は「芽生え」)。

この「種子」とは、さまざまな可能性を秘めた人間の「魂」の象徴でもあり、そこにはさながらイエス・キリストがしばしば幼虫からさなぎを経て蝶となった姿で表わされてきたのと同様、「変身を遂げる者」という意図が込められています。

ただし、イエスが聖なる光の光線に“貫かれ”ることで初めて神の息子となったように、私たちが実際に「種子」を手にして、それをこの世を生きる自身の身に撒いていくためには、他の誰かによって聖別されること、つまり褒められ称えられ、愛でられる対象として認識される経験が必要と考えられてきました。

日本には太陽が真西に沈む秋分=お彼岸の頃に行う「日想観(にっそうかん)」という風習があります。鳥居の中に沈んでいく真っ赤な夕日を拝むというものですが、その意味について先の「聖別」の発想にひきつけて考えれば、これは西の彼方にあると信じられた極楽浄土に意識を向け、亡くなった近しい人や先祖を想い、そこに住むとされる阿弥陀如来(梵名のアミターバは「量りしれない光を持つ者」の意)を念じることで、逆にその光に“貫かれ”ようとしてきたことの表れなのかも知れません。

▼天秤座5度での新月(数え度数では6度)
「主なき弥陀の御名にぞ生まれける 唱え捨てたる跡の一声」(一遍)

今回の新月は天秤座5度で起きますが、ここにはサビアン占星術という占星術の一流派において「男が内なるビジョンの前で具現化しつつある理想を見つめている(The ideals of a man abundantly crystallized)」という詞章が与えられています(「男」という表現は能動性を表すための隠喩)。

簡潔に言ってしまえば、これは「より的確なものとなるよう、内に秘めた願いを具体的なカタチにしていくことで、それに対するリアクションが他者や周囲から返ってくるようにすること」という意味であり、そうした「(特に人間関係における)刷新」が今回の新月のテーマでもあるのですが、これは「よく想像されたことは容易に形となる」というフランスのことわざと併せると、より分かりやすいのではないかと思います。

では、何を、どう想像すればよいのか?

それは親やパートナー、仏でもいい、他の誰かの発する光に貫かれ、ほどかれていく自分自身の姿であり、死んで生まれ変わる自分自身(それと対照的に、私たちはしばしば偽りの安心としての“かたまり”を作ろうとする)。

そして、そうした聖別や変身のプロセスについて、実に的確に表現してくれているのが、先に引用した一遍の歌です。

冒頭の「主なき」の「主」とは主-客の主であり、ここは「我なき」という意味。さらに「生まれける」とは「死んで生きる」ということのリズムであり、それを模した念仏という一瞬一瞬の働きかけのこと。そのリズムの中で弥陀(阿弥陀如来)という、在るようでない、無いようで在るような仕方で自分を包みこんでいる光を感じとって、その感慨を声に重ねていくことで「我(エゴ)」を捨て、ほどかれていこう。そうして、自分自身を、生きるということを、光みちみちさせていこう、と。そんな念と声との一致について歌っているのではないかと思います。

なお、最後の「跡の一声」というのは「(煩悩から切り離された)声を出させてくれた場」のことであり、これは受け取った光を反映させていく先としての人間関係として読み取ることもできるのではないでしょうか。

一遍の場合、変身の手段は念仏でしたが、本来それは踊りであっても、仕事であっても、家事であっても、ちょっとした会話であっても構わないはず。

美と調和を司る天秤座らしく、今回の新月が、皆さんにとってよき「刷新」の契機となりますよう、お祈り申し上げます。

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